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2022年7月31日

  

近況報告  

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バブルは防ぐことが出来なかったのか?
日本経済を沈没させた犯人は誰だ?

                                         安井ゼミ1期生 川西 勉

 2013年7月に、安井修学会第一回梅田ゼミで、僭越ながら「日本経済沈没の原因ーバブル崩壊ー」というタイトルで講演しましたが、今回もう少し深掘りしていきたいと思い筆を執りました。1985年4月〜1990年4月までの、オリックス神戸支店長時代の実体験も含め論じていきたいと思っています。私のどちらかと言うと、かなり右寄りの私見に対し、安井修学会においては、いつも厳しい反論が出ますが、今回も大いなる反論を期待しています.。犯人を特定することが目的ではなく、バブル崩壊による取り返しのつかない悲劇を二度と起こして欲しくないと言う警鐘であり、過ちを犯さないためにどう考えるべきかを検証することが目的です。 

 1985年9月に、ニューヨークのプラザホテルで開催されたG5(日・米・西独・英・仏)蔵相・中央銀行総裁会議で採択された「プラザ合意」が、日本経済を沈没させる発端であると述べました。理由は後述しますが、アメリカ経済を再生させるために、いわば、日本と西ドイツが犠牲になり、国益を棄損させるための会議であったと私は考えています。
 まずは当時の経済状況を把握しておく必要があります。日本は第二次世界大戦で負け、国土は焼け野原となりました。戦後10年ほど悲惨な生活を余儀なくされました。
 日本を、いつまでも適度に貧しい国にしておこうとする、アメリカの占領政策に誤算が生じたのが1950年に勃発した朝鮮戦争です。
 3年間の莫大な戦争特需により、日本の経済は活気づき、アメリカの思惑とは逆に、奇跡的な高度成長が、1955年ごろから1970年半ばまで長期間続き、世界第二位の経済大国となり、経済的に豊かな国になりました。

  日本の貿易収支が毎年大きな黒字であった一方で、アメリカは日本からの輸出攻勢で大幅赤字が続いていました。1981年1月に発足したレーガン政権のもと、大規模減税と軍事力増強による財政収支の赤字で、双子の赤字と呼ばれる経済の低迷で、失業率が上昇し、特に自動車産業を中心に、ジャパンバッシングが繰り返され、国民の不満はかなり高まっていました。
 アメリカ議会やFRBなどの猛烈な圧力もあり、レーガン政権は経済再建を強硬に進めて行くことになります。G5はその圧力により開催された会議と言えます。
 貿易収支の改善のため、ドル高をドル安に是正する必要がありました。国内の需要喚起や投資促進のためには、政策金利を下げる必要がありました。ただし資金還流を防ぐためにも、各国に同時に政策金利の引下げを強硬に要請することになります。

 1982年11月に中曽根康弘首相が誕生し、1987年11月まで政権を担うことになります。お互いをロン・ヤスと呼び合うほどの、日米の蜜月関係が維持されますが、安全保障という最重要カードを握られている日本は、引き続き政治・経済の両面で、アメリカに従属する状況が、常態化することになる訳です。中曽根首相、竹下登蔵相、大蔵官僚は、「プラザ合意」の内容に何の歯止めもかけず、国際協調という名のもとに、アメリカのご機嫌をとり、要求を丸呑みしてしまいました。 

 プラザ合意前の5年ほどは、1ドル=¥240前後で推移していた為替レートが、わずか4ケ月後には1ドル=¥200を突破、1986年7月には1ドル=¥160を突破し、1987年4月に1ドル=¥140と、商社、銀行、輸出メーカーなどの社員達は、40%もの円高に絶望的な悲鳴をあげたものです。私は、川崎重工業神戸造船所の幹部から、悲惨な状態であると何度も聞かされました。
 10%以上の為替相場の変動が、どれだけ大きいことなのか、政治家や大蔵官僚には理解できないのでしょうか。その後の円高・金融不況により、日本企業の海外移転が始まり、雇用環境に大きな影響が出ます。またアメリカの強い要請により、プラザ合意以降1年半の間に、アメリカのために意味のない公定歩合の引き下げを5回もさせられています。西ドイツは、したたかな外交でアメリカの要求を撥ねつけ、ダメージを最小限に食い止めているのに・・・。

 日本銀行の澄田智総裁(大蔵省出身)と、特に三重野康副総裁(日銀生え抜き)は、公定歩合の引き下げに反対でしたが、悲しいかな金融政策の実権を大蔵省に握られ、公定歩合は政治的なツールに利用され、タイムリーに自主的で的確な金融政策を実施できなかったのです。
 円高と公定歩合の2つは、アメリカの圧力で日本経済には大きなマイナスとなりました。
次に外圧のほかに、国内の金融政策の問題点(官僚組織の硬直性)や、銀行の不可思議な融資姿勢や、理解不能の不動産売買など、国内問題に目を転じていくことにします。今まで述べてきたアメリカの圧力と、国内問題を繋ぎ合わせると、バブルの概要と問題点のいくつかが浮かび上がると思います。

 日銀マンは、毎月何社か企業訪問し、業界動向の分析をしたり、金融政策への要望をまとめるなど現場の生の声を聞いています。 私も、1988年に日銀神戸支店幹部二人から、会社の業績や現状の金融業界(ノンバンクを含め)の状況などについて質問を受けたことがあります。
 当時私は、政治家にとって官僚組織が重要とか、その組織が完全な縦割り社会で、政策提案に柔軟性がないとか、大蔵省が最も権限を握っていたとかの実態をまったく知らず、日銀の問題点のいくつかを偉そうに(?)指摘した記憶があります(窓口指導の強化など)。
 マネーサプライの二桁増が続き、そのほとんどが、不動産投機に回っていたのを、日銀は早くから知っていました。私は日銀が男気を出して、大蔵省の圧力を撥ねつけ、窓口指導の強化の実施と総量規制の提案などを実行して欲しかったと、今も残念に思っています。

 三大都市圏の地価は、1983年ごろから二桁の伸びで上昇し続けており、それに伴いマネーサプライも大幅に伸びていました。国土庁と国税庁の毎年の調査でも、特に都心部では1985年以降信じられない異常な高騰が続き、1989年には公示地価や路線価が1983年の3倍になっています。固定資産税や、相続税課税標準額が3倍になると納税したくとも出来ない人が続出する事態になります。
 消費者物価や卸売物価は、横ばいで落ち着いていたのですから、国がもっともっと早く、実需でない投機的不動産短期転売行為(マネーゲーム)を禁止させるべきであったと思います(総量規制など、銀行に指示を出せば良いだけ)。明らかに行政の失態であると言わざるを得ません。
 1988年の三宮駅周辺や神戸元町駅周辺の商業オフィスビルは、投機的転売合戦のさなかにあり、不思議なことに銀行が単純明快なリスクをまったく気にせず、激しい融資競争を続けているのを目の当たりにして、最後にジョーカーを引く銀行はどこなのかと、物件ごとにメモをしていた記憶があります。

 日本の企業のトップに君臨する、大銀行の頭取や役員の俊英たちが、収益還元法や現在価値修正理論などの、不動産経営にも適用できる簡単な経済原則を知らないはずはありません。だとしたら、なぜあのような馬鹿げた融資を許してしまったのでしょう。
 今日30億円の物件が、3ケ月後には50億円、6ケ月後には80億円とかになるのを、自分の目で実際にみて来ました。そんなクレージーな不動産投機に、銀行がなぜ乗っかってしまったのか、私には未だ謎ですが、銀行トップの管理能力、経営能力に問題があったと言わざるを得ません。

 最後にまとめとして、日本経済をダメにしたバブルについて、私の考えを3つに要約します。
 第一に、日本政府がアメリカに対し、西ドイツと異なり、言いなりに従属してきた外交能力の無さに大きな問題があったと思います。上限のない円高を放置し、輸出企業の体力を弱めさせ、また意味のない公定歩合の引き下げを何度も実施し、マネーサプライの大幅増が不動産投機のマネーゲームに結びついてしまったと言う点で、政治の無策、失政に一つの原因があったと思います。
 第二に、私は必ずしも官僚支配的政治を否定はしませんが、縦割りの視野の狭い対応しか出来ず、省庁間の横の連携による柔軟的な対策を講じることが出来なかったことも、バブルを起こした一因に挙げられると思います。霞ヶ関の官僚は国益を考えるのが仕事であるのに、自分の省の権益だけを考え、バブルに対応出来なかった責任はあると思います。
 第三に、銀行業界全体に、ガバナンスが完全に欠けていたことにより、高校生でも分かるようなリスクまでが、銀行の役員には見えなくなったのでしょうか。リスク管理がまったく出来なかった銀行トップの責任は非常に大きいと思っています。後に莫大な国民の税金が破綻銀行のために使われ、また金融不況による長期のデフレ経済を招いた責任は重大です。

  以上3つの落とし穴にはまってしまい、束の間のうわべだけの好景気に浮かれたバブル。すぐに壊れるのは必定でしょう。その後に襲ってくる悪魔たちに気づかずに・・・・・。
 私の分析と異なる意見の方もいると思います。「安井修学会ホームページ」の「事務局へのメール」あてに沢山のご意見たまわれば幸いです。  YS1 川西 勉 (2017年1月10日)