小倉百人一首を楽しむ
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1 天智天皇 (即位前の名前は中大兄皇子。中臣鎌足とともに蘇我氏をほろぼし、第38代天皇に即位。)
秋の田の かりほのいほの とまをあらみ
わが衣手は つゆにぬれつつ |
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歌意
秋の稲田のほとりの仮小屋で番をしていると、その屋根をふいたとまの編み目があらいので、私の袖は夜霧にしきりにぬれることだ。
収穫前の秋の田んぼでは、鳥や動物にあらされないように、一晩中見張りをした。 |
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2 持統天皇 (天智天皇の第2皇女であり、叔父でもある天武天皇の皇后。天武天皇崩御の後、天皇に即位しました。) |
春過ぎて 夏来にけらし 白妙の
衣ほすてふ 天の香具山 |
歌意
春が過ぎて夏が来たらしい。夏になると、白い衣を干すという、天の香具山に(あのように白い衣が干してあるよ)。 |
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3 柿本人麻呂 (飛鳥時代の歌人。歌聖と呼ばれ、称えられている。三十六歌仙の一人。) |
あしびきの 山鳥の尾の しだり尾の
ながながし夜を ひとりかもねむ |
歌意
山鳥のあのたれさがった尾のように長い長い秋の夜を、恋しい人とも離れて、ただ一人わびしく寝ることであろうかな。 |
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4 山部赤人 (奈良時代の歌人。三十六歌仙の一人。) |
田子の浦に うち出て見れば 白妙の
富士の高嶺に 雪は降りつつ |
歌意
田子の浦に出て見て、はるかむこうをながめると、白い布をかぶったように真っ白な富士山が見え、頂上には雪がしきりに降っていることだ。 |
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5 猿丸大夫 (本名ではないとする説が古くからあり、弓削王説・弓削皇子説・道鏡説・小野氏の祖である「小野猿丸」説など諸説があります。) |
奥山に もみぢふみわけ 鳴く鹿の
声聞く時ぞ 秋は悲しき |
歌意
奥深い山の中で、散り敷いた紅葉を踏み分けて鳴いている鹿の声を聞くときが、秋はとりわけ悲しく感じられる。 |
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6 中納言家持 (大伴家持、大伴旅人の子。「万葉集」には、最も多い473首が収録されている。三十六歌仙の一人。) |
かささぎの 流せる橋に 置く霜の
白きを見れば 夜ぞふけにける |
歌意
冬の夜、カササギが翼をつらねて天の川にわたしたという橋に霜が降りて、真っ白なのを見ると、いつのまにか夜もすっかりふけたことだなと感じます。
平城京の建物と建物をつなぐ階段は、天の川にカササギが渡した橋にたとえられていた。 |
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7 安倍仲麿 (奈良時代の遣唐留学生。唐で科挙に合格し、唐朝諸官を歴任して高官に登ったが、日本への帰国が果たせなかった。) |
天の原 ふりさけ見れば 春日なる
三笠の山に 出でし月かも |
歌意
大空をはるかにふり仰いでみると、月がさしのぼって来たが、[この月はむかし日本にいた頃]故郷の春日にある三笠の山にのぼったあの月なのだなあ。(遣唐使藤原清河に従って帰国しようとして、明洲の海辺で、折からの満月を異郷の空に眺め、望郷の情を詠んだ歌) |
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8 喜撰法師 (平安時代の歌人、六歌仙の一人。宇治山に住んでいたそうであるという事以外は不明。) |
わが庵は 都のたつみ しかぞ住む
世をうぢ山と 人はいふなり |
歌意
わたくしの草庵は都の東南にあり、このように安らかに住んでいる。それなのに世間の人は、ここを世間をいとわしいと避けて住む憂き山、宇治山だと言っているようだ。 |
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9 小野小町 (六歌仙の一人。僧正遍昭や在原業平との恋話も有名。京都市左京区の補陀洛寺(小町寺)に小町の墓と伝えられる石塔が建っている。) |
花の色は 移りにけりな いたづらに
わが身世にふる ながめせし間に |
歌意
桜の花の色は、早くもあせてしまったことだなあ。咲いたかいもなく、この長雨が降り続いている間に、私の姿も衰えてしまったのだなあ。むなしい恋の思いに明け暮れて、ぼんやり物思いにふけっていた間に。 |
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10 蝉丸 (「今昔物語集」によると、宇多天皇の皇子の雑役夫だったと書かれている。) |
これやこの 行くも帰るも 別れては
知るも知らぬも あふ坂の関 |
歌意
ここがまあ、あの東国へ行く者も、都へ帰る者もここで別れ、また知っている者も知らない者も、ここで会うという逢坂の関なのだなあ。 |
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11 参議篁(小野篁) (平安時代の学者。遣唐使副使を命じられるが、藤原常嗣と争い、隠岐に流刑になる。数年後都にもどった。) |
わたの原 八十島かけて 漕ぎ出でぬと
人には告げよ あまのつり舟 |
歌意
広い海原を、多くの島々を目指して、舟をこぎ出して行ったと、都にいる妻に告げてくれ。漁師の釣舟よ。
遣唐使として乗船に関して事に従わなかったので、隠岐に流された。難波から出ようとして詠んだ歌である。 |
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12 僧正遍昭 (出家前の名は、良峯宗貞。仁明天皇に仕えたが、天皇が亡くなったことを悲しんで、僧になった。三十六歌仙の一人。) |
天つ風 雲の通ひ路 吹き閉ぢよ
をとめの姿 しばしとどめむ |
歌意
大空を吹く風よ、天女が帰ろうとする雲間の通い路を雲を吹き寄せて、閉じてしまっておくれ。この舞が終わってもあの美しい天女の姿を、いましばらくこの地上にとどめて眺めようと思うから。 |
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13 陽成院 (清和天皇の皇子。9歳で天皇になるが、病気のため17歳で退位させられる。その後60年以上を上皇として過ごした。) |
筑波嶺の 峰より落つる みなの川
恋ぞつもりて 淵となりぬる |
歌意
筑波山の峰から流れ落ちるみなの川がつもりつもって、ついには深い淵となるように、我が恋もつもりつもって淵のように深くなったことだ。 |
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14 河原左大臣 (本名は源融、嵯峨天皇の皇子。源の姓をもらって皇族から離れる。京都の六条に大きな家を建てた。「源氏物語」光源氏のモデルと言われています。) |
みちのくの しのぶもぢずり たれゆゑに
乱れそめにし われならなくに |
歌意
陸奥の信夫(しのぶ)で産するしのぶもぢずりの乱れ模様のように、あなた以外の誰のために乱れそめようとしている私ではないのに。ただあなただけのために乱れそめようとしている私なのです。 |
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15 光孝天皇 (陽成院の後の、第58代天皇。仁明天皇の第3皇子。頭もよく、人に愛された。) |
きみがため 春の野にいでて 若菜つむ
わが衣手に 雪は降りつつ |
歌意
あなたのために春の野に出かけて、若菜(七草)を摘んでいる私の袖には、春がまだ早いので、雪が降りかかってきます。
若菜つみは年中行事の一つで、七草粥のもととなっている。 |
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16 中納言行平 (本名は在原行平、平城天皇の皇子・阿保親王の子で、在原業平朝臣の母ちがいの兄である。) |
立ち別れ いなばの山の 峰に生ふる
まつとし聞かば 今帰り来む |
歌意
あなたと別れて任国の因幡国へ行きますが、因幡の稲羽山の峰に生えている松の木のように、私の帰りを待っていると聞いたなら、すぐにも帰って来ましょう。 |
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17 在原業平朝臣 (平安時代を代表する歌人。六歌仙・三十六歌仙の一人で、「伊勢物語」の主人公のモデルと言われています。歌作りが上手く、美男子で、よくモテタそうです。) |
ちはやぶる 神代も聞かず 竜田川
からくれなゐいに 水くくるとは
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歌意
不思議なことの多かった神代の昔でも、こんなことは聞いていない。この竜田川の水を真紅にくくり染めにするというのは。 |
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18 藤原敏行朝臣 (按察使富士麿の子。字が上手で、京都の神護寺の釣鐘に銘文を残している。) |
住の江の 岸に寄る波 よるさえや
夢の通い路 人目よくらむ |
歌意
住の江の岸に寄る波ではないが、昼はやむをえないにしても、よる(夜)までも、夢の中の通い路で、あの人は人目を避けるのであろうか。 |
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19 伊勢 (宇多天皇の中宮温子(おんし)に仕え、温子の兄の仲平との恋に破局。その後、宇多天皇の皇子を生み、伊勢御息所(みやすどころ)となった。その後、宇多天皇の皇子敦慶親王とも結ばれ、女流歌人の中務(なかつかさ)を生んでいる。 三六歌仙の一人。) |
難波潟 短き葦の ふしの間も
逢はでこの世を 過ぐしてよとや |
歌意
難波潟に生えているあしの、あの短い節と節との間、そのように短い間であっても、あなたに会わないで、この世を過ごせとおっしゃるのですか。
この歌は、会いに来てくれない男性への思いを、難波潟に生える葦の節と節の短さにたとえた歌である。 |
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20 元良親王 (陽成院の第1皇子。多くの女性と恋をしたといわれ、贈答歌が多く残る。「大和物語」などにも登場する。) |
わびぬれば 今はた同じ 難波なる
みをつくしても 逢はむとぞ思ふ |
歌意
(うわさが立って)つらい思いをしていますので、今となってはもう同じことです。難波の「みをつくし」という言葉のように、いっそ我が身を滅ぼしてでもお会いしたいと思います。 |
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21 素性法師 (出家前の本名は、良岑玄利(よしみねのはるとし)。僧正遍昭の子。父親の勧めで、出家した。三十六歌仙の一人。歌合で活躍。) |
今来むと いひしばかりに 長月の
有り明の月を 待ち出でつるかな |
歌意
「今すぐにいくよ」とあなたが言ってきたばかりに、それを真に受けて、9月の長い長い夜を待ち続け、とうとう有り明の月が出る明け方になってしまった。
当時の恋愛や結婚は、男性が女性の家に通って行くのが普通で、恋人を待つのは女性である。この歌は女性の気持ちになって詠ったものである。 |
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22 文屋康秀 (六歌仙の一人。小野小町とも親しかった。三河・山城の地方官をつとめた。) |
ふくからに 秋の草木の しをるれば
むべ山風を あらしといふらむ |
歌意
山から風が吹くと、すぐに秋の草や木がしおれるので、なるほどそれで、山から吹き降ろす風のことを、あらし(嵐)というのだろう。 |
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23 大江千里 (大江音人の子で、在原業平の甥。漢学者としても知られ、歌集に「句題和歌」がある。) |
月見れば ちぢに物こそ 悲しけれ
わが身ひとつの 秋にはあらねど |
歌意
月を見ていると、心がさまざまに乱れて物悲しいことだ。私一人だけに、秋がやってきたわけではないのですけれど。 |
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24 菅家(菅原道真) (平安時代の学者、漢詩人、政治家である。左大臣藤原時平に讒訴され、大宰府へ権師として左遷されそこで没し、為に、朝廷に祟りをなし天神として祀られる。現在は学問の神として親しまれる。) |
このたびは 幣(ぬさ)もとりあへず 手向山
紅葉の錦 神のまにまに |
歌意
こんどの旅は宇多上皇の御幸のお供で急いで来たために道祖神にたてまつる幣を用意するひまもなく来ました。この手向け山のみごとな紅葉の錦を幣として、神よ、御心のままにお受け取り下さい。 |
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25 三条右大臣 (本名は、藤原定方。藤原高藤の子、醍醐天皇の時代には、中納言兼輔と並んで和歌の中心的存在となった。) |
名にし負わば あふ坂山の さねかづら
人に知られで くるよしもがな |
歌意
「逢坂山のさねかづら」は、会って寝るという名を持っているのなら、そのさねかずらを手繰ればくるように、人の知られないで、会いに来る方法があればいいのに。 |
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26 貞信公(藤原忠平) (藤原基経の四男。母は操子女王、兄弟に時平、仲平など、子に実頼、師輔などがいる。小一条太政大臣と号す。) |
小倉山 峰のもみじ葉 心あらば
今ひとたびの みゆき待たなむ |
歌意
小倉山の峰のもみじ葉よ、もしお前に心があるならば、もう一度天皇の行幸があるまで、散らずに待ってほしいものだ。 |
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27 中納言藤原兼輔 (平安中期の公家・歌人です。父は藤原利基、息子の雅正・清正は共に勅撰集入集歌人、紫式部は曾孫にあたります。和歌・管弦に優れ、三十六歌仙の一人です。) |
みかの原 わきて流るる いづみ川
いつみきとてか 恋しかるらむ |
歌意
みかの原を二つに分けて流れる泉川、その名のように、いつ見たというのであの人のことがこんなに恋しいのだろうか。 |
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28 源 宗干朝臣 (光孝天皇の孫、是忠親王の子。三十六歌仙の一人で、紀貫之と親しかった。) |
山里は 冬ぞさびしさ まさりける
人目も草も かれぬと思へば |
歌意
山里は都とちがって、とりわけ冬がさびしく感じられるものです。人の訪れも絶え、草も枯れてしまうと思うと。 |
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29 凡河内躬恒 (下級役人だったが、和歌の才能に優れ、紀貫之らと並ぶ代表的な歌人。「古今和歌集」の撰者の一人。) |
心あてに 折らばや折らむ 初霜の
おきまどはせる 白菊の花 |
歌意
あて推量で折るならば、折ることもできようか。初霜が一面に降りて、その白さで見分けがつかないようにしている白菊の花を。 |
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30 壬生忠岑 (壬生安綱の子で、壬生忠見の父。下級の役人だったが、歌人としては有名。三十六歌仙の一人である。) |
有り明けの つれなく見えし 別れより
暁ばかり 憂きものはなし |
歌意
夜が明けてもそしらぬ顔で空にかかっている有り明けの月のように、あなたが私に対してそしらぬ様子に見えたあの別れの朝以来、暁ほどつらい悲しいものはない。 |
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31 坂上是則 (平安時代前期から中期にかけての歌人。征夷大将軍坂上田村麻呂の子孫で、子に後撰和歌集の選者坂上望城(もちき)がいます。歌人としては三十六歌仙の一人です。) |
朝ぼらけ 有り明けの月と 見るまでに
吉野の里に 降れる白雪 |
歌意
ほのぼのと夜の明けるころ、有り明けの月の光かと思われるほどに、吉野の里に白く降り積もっている雪だなあ。 |
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32 春道列樹 (新名宿禰の子。壱岐守という役人になるが、赴任前になくなる。) |
山川に 風のかけたる しがらみは
流れもあへぬ もみぢなりけり |
歌意
山の谷川に風がつくった流れ止めのしがらみ(さく)がありました。それは流れようとして流れきらずにいる紅葉の葉でしたよ。
京都から比叡山を通り、近江にぬける山道でつくられた歌。 |
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33 紀 友則 (紀貫之の従兄弟。三十六歌仙の一人。「古今和歌集」の撰者であったが、完成する前に亡くなった。) |
ひさかたの 光のどけき 春の日に
しづ心なく 花の散るらむ |
歌意
日の光がのどかにさしている春の日であるのに、どうして落ち着いた心もなく桜の花が散っているのであろう。 |
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34 藤原興風 (藤原道成の子。冠位は低かったが、歌人としては有名。家集に「興風集」もある。管弦にも優れていた。) |
誰をかも 知る人にせむ 高砂の
松も昔の 友ならなくに |
歌意
誰をいったい知り合いとしようか。昔の友は誰も生きていないし、年をとった高砂の松も昔からの友ではないものを。 |
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35 紀 貫之 (平安時代前期から中期の歌人、随筆家です。三十六歌仙の一人。紀友則は従兄弟です。「土佐日記」の著者として有名です。) |
人はいさ 心も知らず ふるさとは
花ぞ昔の 香ににほひける |
歌意
あなたのほうは、さあ、どうだか、お心のうちはわかりません。ひょっとしたらお心も変わってしまったかもしれませんが、昔なじみのこの土地では、梅の花だけは昔のままのかおりで咲き匂っていることです。 |
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36 清原深養父 (清原元輔の祖父、清少納言の曽祖父にあたる。琴の名手でもあった。) |
夏の夜は まだよひながら 明けぬるを
雲のいずこに 月やどるらむ |
歌意
夏の夜は短くて、まだ宵のうちだと思っている間にもう明けてしまった。月は、沈む間もないことでしょう。雲のどのあたりに、宿をとることであろうか。 |
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37 文屋朝康 (文屋康秀の子。歌の才能は広く認められていた。) |
白露に 風の吹きしく 秋の野は
つらぬきとめぬ 玉ぞ散りける |
歌意
白く光るつゆに風が吹きつける秋の野原は、ちょうど緒に貫きとめない玉が、散り乱れているようだ。 |
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38 右近 (右近衛少将藤原季縄(すえなわ)の娘。醍醐天皇の中宮穏子に仕えた。960年の内裏歌合せで活躍し、才能を認められた。) |
忘らるる 身をば思はず 誓ひてし
人の命の 惜しくもあるかな |
歌意
あなたに忘れられる私の身のことは今は何とも思いません。神かけて心変わりしないと誓ったあなたが、誓いを破った神罰で命を失うのではないかと、あなたの命がただただ惜しく思われることです。 |
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39 参議等 (本名は、源等。嵯峨天皇のひ孫で、中納言希の子。) |
浅茅生の 小野のしのはら 忍ぶれど
あまりてなどか 人の恋しき |
歌意
浅茅の生えている小野(野原)の篠原(細い竹の生えている原)の「しの」のように、自分の思いをかくして忍んでいても、思いがこらえきれません。どうしてあの人のことがこんなにも恋しいのでしょうか。 |
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40 平 兼盛 (光孝天皇のひ孫である篤行王の子。「後撰和歌集」時代の代表的な歌人で、三十六歌仙の一人。) |
忍ぶれど 色に出でにけり わが恋は
物や思ふと 人の問ふまで |
歌意
人に知られまいとつつみかくしていたが、とうとう顔色に現れてしまったことだ、私の恋心は。「物思いをしているのか」と、人が尋ねるまでに。 |
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41 壬生忠見 (壬生忠岑の子。三十六歌仙の一人。宮中で行われた内裏歌合せで忠見と平兼盛は接戦。当時忠見は摂津国の役人であった。) |
恋すてふ わが名はまだき 立にけり
人知れずこそ 思ひそめかし |
歌意
恋をしているという私の評判は早くも世間にひろまってしまったことだ。自分では、誰にもわからないように心ひそかに思いはじめたのに。 |
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42 清原元輔 (清原深養父の孫で、清少納言の父。) |
ちぎりきな かたみに袖を しぼりつつ
未の松山 波越さじとは |
歌意
あなたと私とは約束をしましたね。おたがいに涙にぬれた袖をしぼりながら「末の松山を波が越さないように、どんなことがあっても心変わりはしまい」とね。だのにあなたは心変わりしてしまったのですね。
心変わりした女に対する恨みを述べた歌である。 |
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43 権中納言敦忠 (本名は、藤原敦忠。藤原時平の子で、母は在原業平の孫。多くの恋をした人で、右近との恋は有名。) |
逢ひ見ての 後の心に くらぶれば
昔は物を 思はざりけり |
歌意
あなたにお会いしてから後の、この恋しくせつない今の気持ちに比べると、会わなかった以前は何も物思いをしなかったと、今になっては考えます。 |
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44 中納言朝忠 (本名は、藤原朝忠。藤原定方の子で、従三位中納言にまで位が上がった。右近などとの恋の歌が残っている。) |
逢ふことの 絶えてしなくは なかなかに
人をも身をも 恨みざらまし |
歌意
いっそ会うということがまったくなかったならば、かえってつれない人だとあなたを恨むことも、我が身のつらさを嘆き恨むこともないだろうに。 |
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45 謙徳公 (本名は、藤原伊尹(これただ)。右大臣師輔の子で、娘の懐子が花山天皇の母となったので、力をつけ摂政太政大臣になった。) |
あはれとも いふべき人は 思ほえで
身のいたづらに なりぬべきかな |
歌意
私のことを「あわれだ」と言ってくれそうな人は、あなたをおいては誰も思い浮かんでこないので、私はあなたに恋いこがれながら死んでしまいそうですよ。 |
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46 曾禰好忠 (丹後国の掾という役人だった。変わり者だったため、出世しなかったが、生き生きとした歌をよんだ。) |
由良の門を 渡る舟人 かぢを絶え
ゆくへも知らぬ 恋の道かな |
歌意
由良海峡を漕ぎ渡る舟人がかじを失って途方にくれているように、たよりにする人を失って、これから先どうなってゆくかゆくえも分からない恋のみちであることよ。 |
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47 恵慶法師 (播磨国の講師(僧侶の監督)などをつとめ、清原元輔、大中臣能信朝臣、平兼盛らと親しかった。) |
八重葎 しげれる宿の さびしきに
人こそ見えね 秋は来にけり |
歌意
幾重にも雑草が生い茂るこの河原院は、荒れ果ててものさびしいので、人は訪ねて来ないが、しかし、秋はいつものようにおとずれてきたことだ。 |
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48 源 重之 (清和天皇のひ孫で、源兼信の子であるが、おじの参議兼忠の養子となる。相模や筑紫などの地位の低い官職に就いた。) |
風をいたみ 岩うつ波の おのれのみ
砕けて物を 思ふころかな |
歌意
風がはげしくて、岩に打ちあたって自分だけが砕け散るように、私だけがあなたのことを心も砕け散るほどに思い悩んでいるこのごろであるよ。 |
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49 大中臣能宣 (伊勢神宮の祭主の家に生まれ、自身も祭主をつとめる。「後撰和歌集」の撰集にあたった。) |
みかきもり 衛士の焚く火の 夜は燃え
昼は消えつつ 物をこそ思へ |
歌意
皇居の御門を守る衛士のたくかがり火のように、私も夜は恋の炎が燃え上がり、昼は身も心も消え入るほどせつなく、つらい恋の物思いをしています。 |
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50 藤原義孝 (藤原伊尹(これただ)の子。病気のために僅か21歳で亡くなった。) |
君がため 惜しからざりし 命さへ
長くもがなと 思ひけるかな |
歌意
あなたのためには死んでも惜しくないと思っていた私の命までが、お会いした今は、いつまでも長く続いてほしいと思ったことです。 |
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51 藤原実方朝臣 (藤原忠平の孫。花山天皇と一条天皇に仕えた。宮中でいさかいを起こして地位を下げられ、陸奥(宮城県名取市)で死去。) |
かくとだに えやはいぶきの さしも草
さしも知らじな 燃ゆる思ひを |
歌意
私があなたを恋していることの深さは、このようだとだけでも口に出していうことができない。伊吹山のさしも草ではないけれど、こんなにも燃える恋の思いを、あなたは知らないでしょう。 |
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52 藤原道信朝臣 (藤原為光の三男、謙徳公の孫。藤原兼家の養子になるが、22歳で病死。) |
明けぬれば 暮るるものとは 知りながら
なほ恨めしき 朝ぼらけかな |
歌意
夜が明けてしまうと、また必ず日が暮れるものだ。そうすればまたあなたに会えるとは承知しながらも、やはり恨めしく感じられるのは、あなたと別れて帰らなければならない明け方です。
この時代の男性貴族は、女性の家を日が暮れてから訪ねて、夜明けには帰るものでした。 |
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53 右大将道綱母 (陸奥守藤原倫寧の娘。藤原兼家の第二夫人、藤原道綱を生む。その半生を「蜻蛉日記」につづった。) |
嘆きつつ ひとりぬる夜の 明くる間は
いかに久しき ものとかは知る |
歌意
あなたのおいでになるのを待ちこがれ、嘆きながらむなしくひとり寝るその夜が明けるまでの間は、どんなに長くつらいものであるか、あなたはご存知でしょうか。いいえ、ご存じではありますまい。 |
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54 儀同三司母 (高階成忠の娘で、名前は貴子。藤原道隆の妻となり、伊周(これちか)や隆家、一条天皇の后・定子を産んだ。夫が死んだあと、出家した。
儀同三司母は息子藤原伊周の官名(儀同三司)による。) |
忘れじの 行く末までは かたければ
けふを限りの 命ともがな |
歌意
あなたが私のことをいつまでも忘れないという、その遠い将来のことまでは、頼みにしがたいことですから、この幸せな今日が最後の命であってほしいことです。 |
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55 大納言公任(藤原公任) (関白藤原頼忠の子、祖父は実頼、祖祖父忠平です。和歌だけでなく、音楽・漢文の才能にも恵まれ、「拾遺集」や「和漢朗詠集」の本をまとめられた。) |
滝の音は 絶えて久しく なりぬれど
名こそ流れて なほ聞こえけれ |
歌意
滝の流れ落ちる音は、聞こえなくなってからずいぶん長い年月がたってしまったが、すばらしい滝であったという評判のほうは、世間に流れ伝わって、今なお聞こえている。 |
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56 和泉式部 (大江雅致(まさむね)の娘。和泉守橘道貞と結婚。和泉式部とよばれ、小式部内侍を産んだ。「和泉式部日記」(1003年4月〜10ヶ月間の日記)が有名。) |
あらざらむ この世のほかの 思い出に
いまひとたびの 逢ふこともがな
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歌意
私はもうすぐ死んで、この世を去っていくでしょう。この世からあの世にっても思い出にできるよう、せめてもう一度だけ、あなたにお会いしたいものです。 |
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57 紫式部 (平安中期の女流作家、歌人。源氏物語の作者として有名。三十六歌仙の一人。五十四帖にわたる「源氏物語」、宮仕え中の日記「紫日記」を著した。) |
めぐり逢ひて 見しやそれとも わかぬ間に
雲隠れにし 夜半の月かな |
歌意
久しぶりでめぐりあって、昔見たなつかしいその月かどうかと、はっきり見分けもつかないうちに、たちまち雲間にかくれてしまった夜半の月の光よ、たちまち帰ってしまわれたあの人よ。 |
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58 大弐三位藤原賢子 (本名は藤原賢子で、紫式部の娘。三歳で父の藤原宣孝と死別。藤原兼隆と結婚し、後冷泉天皇の乳母となるが、後に大弐三位高階成章と再婚。) |
有馬山 猪名の笹原 風吹けば
いでそよ人を 忘れやはする |
歌意
有馬山に近い猪名野の笹原に風が吹き渡るとそよそよと音をたてる。その音のように、そよ(そうよ)、どうしてあなたを忘れてしまうはずがありましょうか。決して忘れてはいません。 |
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59 赤染衛門 (赤染時用(ときもち)の娘。藤原道長の妻倫子と、娘の彰子に仕える。大江匡衡(まさひら)と結婚。和泉式部や紫式部たちと交流した。) |
やすらはで 寝なましものを 小夜ふけて
かたぶくまでの 月を見しかな |
歌意
あなたが来ないと知っていたら、迷わずに寝てしまったのに。あなたを待っているうちに夜がふけて、西にかたむいて沈んでいく月を見てしまいました。 |
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60 小式部内侍 (母とともに中宮彰子に仕えたが、若くして亡くなる。小式部内侍は、母と同じように多くの男性と恋をします。しかし、藤原公成の子を出産した後、20代半ばでなくなってしまう。) |
大江山 いくのの道の 遠ければ
まだふみもみず 天の橋立 |
歌意
大江山を越え、生野を通って行くその道のりが遠いので、まだあの名勝の天の橋立は踏んでみたこともありません。もちろん母からの文も見ていません。
母、和泉式部が丹後にある頃、歌合せの歌人に選ばれ、藤原定頼が「歌はどうするの?お母さんのいる丹後国へお使いは出されましたか?」と、からかった時に、すぐによんだのがこの歌です。 |
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61 伊勢大輔 (平安時代中期の女流歌人。伊勢神宮の祭主大中臣輔親の娘だったので伊勢大輔と呼ばれた。三十六歌仙の一人。一条天皇の中宮上東門院藤原彰子に仕え、和泉式部・紫式部などと親交。) |
いにしえの 奈良の都の 八重桜
けふ九重に にほひぬるかな |
歌意
昔の奈良の都に美しく咲いた八重桜が、今日はこの九重(宮中のこと)で、いっそう色美しく咲いていることだ。
新参の女房である伊勢大輔が、奈良の都の八重桜を受け取る役を紫式部より譲られ、満座注視の中で詠んだ当意即妙の歌である。 |
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62 清少納言 (清原元輔の娘。一条天皇の中宮定子に仕えた。「枕草子」の著者。枕草子は鴨長明「方丈記」、吉田兼好「徒然草」とともに、日本三大随筆の一つ。) |
夜をこめて 鳥の空音は はかるとも
よにあふ坂の 関はゆるさじ |
歌意
夜がまだ深いうちに、鶏の鳴きまねをして人をだまそうとしても、函谷関を開けることなら出来もしたでしょうが、あなたと私が会うという名の逢坂の関は決してあなたをお通ししませんよ。 |
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63 左京太夫通雅 (本名は、藤原通雅。藤原伊周の子。祖父の藤原道隆に愛された。幼いころに父が地位を失い、不幸な人生をおくった。) |
今はただ 思ひ絶えなむ とばかりを
人づてならで いふよしもがな |
歌意
今はただあなたへの思いをあきらめてしまおう、ということだけを、人伝てにではなく、直接あなたに会って言いたいと思うだけです。 |
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64 権中納言定頼 (本名藤原定頼は平安時代中期の公家・歌人。父は藤原公任、母は昭平親王(村上天皇の皇子)の娘。正二位権中納言に至り、四条中納言と称される。中古三十六歌仙の一人。) |
朝ぼらけ 宇治の川霧 たえだえに
あらわれわたる 瀬々の網代木 |
歌意
夜がしらじらとあけるころ、宇治川にたちこめていた川霧が、とぎれとぎれとなって、その絶え間から、しだいに遠くまで点々と現れはじめた川瀬川瀬のあちこちに立つ網代木よ。 |
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65 相模 (源頼光の養子。相模守の大江公資(きんより)の妻となり、相模とよばれる。離婚後、修子内親王に仕え、歌人として活躍。) |
恨みわび 乾さぬ袖だに あるものを
恋に朽ちなむ 名こそ惜しけれ |
歌意
人のつれなさを恨み、我が身のつらさを悲しんでこぼす涙で、乾く暇もなく朽ちてしまう袖さえあるのに、その上、この恋の浮名が立って朽ちてしまうであろうわが名が惜しいことだ。 |
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66 前大僧正行尊 (三条天皇の皇子・敦明親王の孫で、源基平の子。12歳で出家し、大僧正になった。) |
もろともに あわれと思へ 山桜
花よりほかに 知る人もなし |
歌意
私がおまえをなつかしく思うように、おまえもこの私を懐かしいものと思ってくれ、山桜よ。こんな山奥ではお前以外心持のわかる人はいないのだ。
大峰山に修行のために分け入って、思いがけず常磐木の中に桜を見出して詠んだ歌である。 |
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67 周防内侍 (防守平棟仲の娘。本名は仲子,後冷泉天皇に仕え、白河天皇や堀川天皇にも仕えた。) |
春の夜の 夢ばかりなる たまくらに
かひなく 立たむ 名こそをしけれ |
歌意
短い春の夜の夢のように、あなたの腕を枕としてお借りしたりすれば、つまらないうわさが立つでしょう。それはくやしいではありませんか。 |
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68 三条院 (三条天皇。冷泉天皇の第二皇子。25年間も皇太子として過ごし、36歳で天皇になる。5年で位を譲り、翌年亡くなる。) |
心にも あらでうき世に ながらへば
恋しかるべき 夜半の月かな |
歌意
自分の本心とはちがって、このつらいことの多い世に生き長らえていたら、そのときはきっとなつかしく思い出されるであろうこの夜ふけの美しい月であることよ。 |
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69 能因法師 (出家前の名は、橘永ト(ながやす)。26歳ごろに出家し、古曽部入道とよばれた。各地を旅しながら歌をつくった。) |
あらし吹く 三室の山の もみぢ葉は
竜田の川の 錦なりけり |
歌意
嵐が吹いて三室の山のもみじ葉をしきりに散らしているが、散ったもみじ葉は、山すその竜田川に一面に浮かんで、錦を織りなしているようであるよ。 |
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70 良暹法師 (りょうぜんほうし。比叡山で修行し、京都の大原や、雲林院という寺で暮らしていた。) |
さびしさに 宿を立ちいでて ながむれば
いづこも同じ 秋の夕ぐれ |
歌意
さびしさのために庵から出て、あたりを眺めると、見渡す限りどこも同じ寂しさだ。この秋の夕暮れ時は。 |
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71 大納言経信 (源道方の子。漢詩、和歌、管弦の才能を備えていたので、大納言公任と並んで「三船の才」と呼ばれた。) |
夕されば 門田の稲葉 おとづれて
あしのまろやに 秋風ぞふく |
歌意
夕方になると、門前の田の稲の葉にさやさやと音をたてて、葦葺きのの仮屋に、秋風が吹きわたってくる。
この歌は京都の西部梅津(京都市右京区梅津)で、「田園の家の秋風」という題でよまれた。 |
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72 祐子内親王家紀伊 (藤原重経の妻で、後朱雀天皇の皇女祐子内親王に仕えた。) |
音に聞く たかしの浜の あだ波は
かけじや袖の ぬれもこそすれ |
歌意
評判の高い高師の浜(堺市浜寺海岸)のあだ波のように、いっこうに心の定まらない、有名な浮気者のあなたのことは決して心にかけないことにします。結局あなたに捨てられて涙で袖をぬらすようになると困りますから。 |
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73 権中納言匡房 (まさふさ。本名は大江匡房。大江匡衡と赤染衛門のひ孫。政治、漢学、和歌など広い分野で才能を発揮。) |
たかさごの 尾のへの桜 咲にけり
とやまのかすみ たたずもあらなむ |
歌意
高い山の峰の桜が美しく咲いたことだ。あの桜をかくさないように、人里近い山の霞よどうか立たないでほしい。
内大臣藤原師通の邸に集まって酒を飲み、「遥望山桜」の題で詠んだ歌である。 |
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74 源俊頼朝臣 (大納言経信の子。堀河天皇の音楽を演奏する楽人となり、和歌の才能も認められ、「金葉和歌集」の撰者となった。) |
憂かりける 人をはつせの 山おろしよ
はげしかれとは 祈らぬものを |
歌意
自分につれなくしてきた人を、どうか私になびかせてくださいと初瀬寺の観音に祈りはしたが、初瀬の山から吹き降ろす山おろしの風よ、そのように、あの人がますます激しくつらくなれとは私は決して祈りはしなかったのに。 |
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75 藤原基俊 (藤原道長のひ孫で、右大臣俊家の子。名門の出だが出世はできなかった。歌や漢文が得意で、後に出家する。) |
契りおきし させもが露を 命にて
あはれ今年の 秋もいぬめり |
歌意
あなたが約束してくれた、させも草においためぐみの露のような情け深いお言葉を、命のようにあてにしていたのに、むなしく今年の秋も過ぎて行ってしまうようです。 |
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76 法性寺入道前関白太政大臣 (本名は、藤原忠通。藤原忠実(ただざね)の子。大僧正慈円の父。詩や書の才能もあり、後出家した。) |
わたの原 漕ぎ出でて見れば ひさかたの
雲ゐにまがふ 沖つ白波 |
歌意
ひろびろとした海原に舟をこぎ出して見わたすと、そのかなたの沖の方には、真っ白な雲と見まちがえてしまいそうな沖の白波が立っていますよ。 |
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77 崇徳院 (5歳で即位し、22歳で近衛天皇に位を譲る。後白河天皇と対立して争いを起こすが、負けて讃岐へ流刑となる。) |
瀬をはやみ 岩にせかるる 滝川の
われても末に 逢はむとぞ思う |
歌意
川瀬の流れが速いので、岩に堰き止められる急流が2つに分かれても、後には再び出会うように、あなたと今は別れても、いつかはきっといっしょになろうと思うことだ。 |
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78 源兼昌 (美濃の守源俊輔の子。位は従5位下・皇后宮少進にまでなる。後に出家、多くの歌合せで活躍。) |
淡路島 かよふ千鳥の 鳴く声に
いく夜ねざめぬ 須磨の関守 |
歌意
淡路島から渡ってくる千鳥のもの悲しく鳴く声で、幾晩目を覚ましたことであろうか、この須磨の関の番人は。
都を遠く離れて、須磨(神戸市)の関所に勤める関守の仕事は、今でいう単身赴任で、寂しさを実感したものである。 |
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79 左京大夫顕輔 (本名は、藤原顕輔。歌道の六条家を創立した藤原顕季の子。歌会・歌合で活躍。「詞花和歌集」の撰者となる。) |
秋風に たなびく雲の 絶え間より
もれ出づる月の 影のさやけさ |
歌意
秋風に吹かれてたなびいている雲の切れ目から、もれ出る月の光のすみきって明るいことよ。
月の光のすみきった美しさを軽快な調べでよんだ歌です。 |
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80 待賢門院堀河 (源顕仲(あきなか)の娘で、白河天皇の皇女・令子内親王に仕える。後に待賢門院に仕えて堀河と呼ばれる。) |
長からむ 心も知らず 黒髪の
乱れて今朝は 物をこそ思へ |
私のこの黒髪のように長く愛するという、あなたの心が本当かどうかわからず、今朝の私の心は、乱れた黒髪のように、物思いにふけっています。 |
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81 後徳大寺左大臣 (藤原公能の長男、詩歌や管弦にも優れていた。) |
ほととぎす 鳴きつるかたを ながむれば
ただありあけの 月ぞ残れる |
歌意
ほととぎすが鳴いたと思って、その方角を眺めると、すでにほととぎすの姿は見えず、ただ有り明の月だけが残っているだけでした。 |
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82 道因法師 (出家前の本名は、藤原敦頼。崇徳院に仕え、90才を過ぎても沢山の歌会に出ていた。) |
思ひわび さても命は あるものを
憂きに堪へぬは 涙なりけり |
歌意
思う人のつれなさを恨み、我が身のつらさを嘆いて、生きていられないかと思った命も、それでもやはり生き長らえているのに、そのつらさにこらえきれないで、こぼれるものは涙であることよ。 |
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83 皇太后宮大夫俊成 (本名は藤原俊成。藤原俊忠の子で、権中納言定家の父。63歳で出家。) |
世の中よ 道こそなけれ 思い入る
山の奥にも 鹿ぞ鳴くなる |
歌意
この世の中には、逃れていく道はないのだ。思いつめて入ってきたこの山の奥にも、やはりつらいことがあるのか。鹿がもの悲しく泣いているのが聞こえる。 |
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84 藤原清輔朝臣 (左京大夫顕輔の子。父と仲が悪く苦労が多かった。歌道の家六条家の中心となって活躍。) |
ながらへば またこの頃や しのばれむ
憂しと見し世ぞ 今は恋しき |
歌意
長く生きていればまた、今のつらいこともなつかしく思い出せるのでしょうか。つらく苦しいと思っていた昔の日々も、今は恋しく思い出されるのですから。 |
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85 俊恵法師 (大納言経信の孫、源俊頼朝臣の子。奈良東大寺の僧であったが、京都に歌人たちの集まる歌林苑を営んだ。) |
夜もすがら 物思ふころは 明けやらで
ねやのひまさへ つれなかりけり |
歌意
一晩中無情な人のことを思って眠れずに物思いをしている頃は、夜もなかなか明けようとしないで、寝室の戸のすき間さえ、思いやりのないように思われます。 |
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86 西行法師 (出家前の本名は、佐藤義清(のりきよ)。23歳で出家。全国を旅して、2千首以上の歌をよんだ。歌集に「山家集」がある。) |
嘆けとて 月やは物を 思はする
かこち顔なる わが涙かな |
歌意
嘆けといって、月は物思いをさせるのだろうか、いいえそうではありません。本当は恋の思いのせいなのに、月が物思いをさせてでもいるかのように、かこつけがましくも流れ落ちる私の涙であることだ。 |
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87 寂連法師 (出家前の名は、藤原定長、皇太后宮大夫俊成の養子となった。) |
むら雨の つゆもまだ干ぬ まきの葉に
きり立ちのぼる 秋の夕ぐれ |
歌意
ひとしきり振ったにわか雨の露がまだかわかないうちに、杉や桧の葉のあたりに、霧が立ち上っている秋の夕暮れ時だなあ。 |
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88 皇嘉門院別当 (源俊隆の娘で、崇徳院皇后の聖子(皇嘉門院)に仕えた女房。) |
難波江の 葦のかりねの ひとよゆゑ
みをつくしてや 恋ひわたるべき |
歌意
難波の入江の葦の切り株の一節のような旅先のはかない仮寝の一夜のかりそめの契りを結んだばかりに、これから先、私はひたすらに身を捧げ恋い続けなければならないのだろうか。 |
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89 式子内親王 (後白河院の第三皇女。皇太后宮大夫俊成や権中納言定家から歌を学んだ。当時の代表的な女流歌人。) |
玉の緒よ 絶えなば絶えぬ ながらへば
忍ぶることの 弱りもぞする |
歌意
私の命よ、絶えるならば絶えてしまえ。生きながらえていると、この恋をこらえて胸に秘めておく力が弱まり、人目に現れてしまうかもしれないから。 |
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90 殷富門院大輔 (いんぷもんいんのたいふ。藤原信成の娘。後白河天皇の第1皇女。亮子内親王(殷富門院)に仕えた。1192年に殷富門院に従って出家した。) |
見せばやな 雄島のあまの 袖だにも
濡れにぞ濡れし 色はかわらず |
歌意
あなたにお見せしたいものです。血の涙に濡れて色が変わった私の袖の色を。あの松島の雄島の漁師の袖さえも、どんなに波しぶきでぬれても、色までは変わらないのに。 |
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91 後京極摂政前太政大臣 (本名は藤原良経、藤原兼実の子。10代から才能を発揮し、摂政太政大臣になったが、38歳で急死した。) |
きりぎりす 鳴くや霜夜の さむしろに
衣かたしき ひとりかもねむ |
歌意
こうろぎが鳴く霜の降る寒い晩の、むしろの上に私は自分の片袖を敷いて、ただ一人寝るのだろうか。 |
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92 二条院讃岐 (源頼政の娘。二条院に仕えた後、藤原重頼と結婚。その後、後鳥羽天皇の中宮にも仕え、のちに出家した。) |
わが袖は 潮干に見えぬ 沖の石の
人こそ知らぬ 乾く間もなし |
歌意
私の袖は、潮干の時でも見えない沖の石のように、人は知らないけれど、いつもあの人を思う涙に濡れていて乾く暇もありません。 |
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93 鎌倉右大臣 (本名は、源実朝。源頼朝と北条政子の子。12歳で鎌倉幕府三代将軍となるが、28歳で暗殺される。) |
世の中は 常にもがもな 渚漕ぐ
あまの小舟の 綱手かなしも |
歌意
世の中は永久に変わらないものであってほしい。波打ちぎわを漕いで行く漁師の小舟が、綱手で陸から引かれている様子は、しみじみと心ひかれる光景である。 |
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94 参議雅経 (本名は、藤原雅経。藤原頼経の子で、「新古今和歌集」の撰者の一人。けまりの家として有名な、飛鳥井家をおこす。) |
み吉野の 山の秋風 小夜ふけて
ふるさと寒く 衣うつなり |
歌意
吉野山の秋風が夜更けて吹き、古都吉野には寒々と衣を打つ音が聞こえてくる。 |
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95 前大僧正慈円 (藤原忠通の子。13歳で出家し、37歳で天台宗の最高位の僧となる。歴史書「愚菅抄」の作者。) |
おほけなく うき世の民に おほふかな
わがたつそまに すみ染めの袖 |
歌意
我が身には過ぎた願いであるが、つらいことの多いこの世の人々におおいかけることだ。比叡山に住みはじめてから着ているこの法衣の袖を。
法の力によって、天下万民を救おうという抱負と重責をうたっている。 |
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96 入道前太政大臣 (本名は藤原公経(きんつね)。華やかな生活をおくり、西園寺を建てた。61歳で出家する。) |
花さそふ あらしの庭の 雪ならで
ふりゆくものは わが身なりけり |
歌意
花を誘って散らせる強い風の吹く庭にふるのは、花吹雪ではなく、古くなって年をとっていく私の身であることよ。 豪華な遊宴、花吹雪の庭、一転して老いを嘆く老人の悲しみを詠った。
痛ましい乱世の転変の中を生き抜いて、太政大臣の権勢と豪華をほしいままにしたが、老いの到来は自分の思うままにはならなかった。 |
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97 権中納言定家 (皇太后宮大夫俊成の子。御子左家の中心となって活躍。「新古今和歌集」、「新勅撰和歌集」などの撰者。) |
来ぬ人を まつほの浦の 夕なぎに
焼くや藻塩の 身もこがれつつ |
歌意
いくら待っても来ない恋人を待って、松帆の浦の夕なぎの時に焼く藻塩草が火にこげるように、私の身も恋しい思いにこがれつづけています。
松帆の浦は、淡路島の最北端(淡路市)にある、明石海峡に面した海岸のことである。 |
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98 従二位家隆 (本名は、藤原家隆、藤原光隆の子。歌の才能は権中納言定家と並んでほめたたえられ、「新古今和歌集」の撰者の一人。) |
風そよぐ ならの小川の 夕ぐれは
みそぎぞ夏の しるしなりける |
歌意
風がそよそよと楢の葉に吹いている。このならの小川の夕暮れは、涼しくて秋のような感じだが、この川のほとりでみそぎが行われているのが夏の証拠ですよ。 |
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99 後鳥羽院 (高倉天皇の第4皇子。五歳で天皇になり、19歳で位を譲る。「承久の乱」で隠岐へ追放され、そこで亡くなった。) |
人もをし 人もうらめし あぢきなく
世を思ふゆゑに 物思ふ身は |
歌意
時には人がいとしくもあり、時には人がうらめしくも思われる。世の中を思うようにならず、にがにがしいと思うために、あれこれと物思いの絶えない私にとっては。 |
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100 順徳院 (後鳥羽院の第3皇子で、14歳で天皇になる。「承久の乱」に負けて、佐渡へ流刑にされ、そこで亡くなった。) |
ももしきや 古き軒端の しのぶにも
なほあまりある 昔なりけり |
歌意
宮中の荒れ果てた古い軒端にはえている忍ぶ草を見るにつけても、いくら偲んで偲びきれないほどなつかしく思い出されるのは、古きよき昔の御代であることよ。 |
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